母が亡くなったのは、終戦まじかの8月5日。
葬儀の日、住職がポツリ。
『 あの事を話せる方、橋渡し世代の方がほとんどいなくなってしもうた 』
あの事とは戦争、そして " 宇佐海軍航空隊 " が存在していた事実。
南北に延びる滑走路から、母の実家は直線で500mほど。
女学校に通っていたが、勉強どころではなく勤労奉仕の毎日。
戦闘機を格納する掩体壕を造ったり、旋盤を使って弾丸の加工。
S20年3月から空襲が始まり、爆撃機のべ400機あまり終戦8月まで10回。
周辺の集落にも、被害が及んだ。
母の実家、庭に防空壕があった。爆弾が落ちてきた時の怖さは、想像を絶する。
永代供養をお願いしている菩提寺、ご先祖に挨拶と一年の無事を報告。
住職に無理を言って、空襲された当時の写真を見せてもらった。
赤い印が母の実家、通った小学校が左上。
墓参りの後、初めて訪ねた " 宇佐空の郷 " と " 宇佐市平和資料館。
航空隊の被弾した門柱、見ながら説明を受ける。
零式艦上戦闘機、通称ゼロ戦。オモチャみたいなコクピット、よくこれで・・・。
爆弾池から眺めた基地の跡、今は青い稲が広がるおだやかな風景。
滑走路跡、真っすぐ伸びる道路。
ここから飛び立った神風特別攻撃隊、154人の若い命が散った。
出撃前夜は自宅に泊め、皆さんを見送ったという母。
こうして書く事で、思いのかけらが一つでも伝われば。
のどかで争いのない世界、願わずにはいられない。