お昼寝マンボウの日記

温泉・花たび・お外でランチ、とにかく何でも興味ありのデベソおいさん。日々の、拙い出来事を記録しちょります。

『 祈り 』

盆の墓参りを済ませ、母方の永代供養をお願いしているお寺へ。

こちらの平田ご住職が執筆した " 掩体壕を残すまちから "

表紙を飾る、城井一号掩体壕を訪ねた。

市内に、現存するのは10基。

絵を画く楽しさを教えてくれた姉さん先生、彼女の実家にあるのは国内最大。

攻撃機の格納庫、今は農機具置き場や車庫替わり。

 

宇佐海軍航空隊のそばが母の実家、庭に防空壕があった。

昭和20年3月から空襲が始り、終戦8月までB29などの爆撃機やく400機。

航空隊基地周辺にのべ10回を超え、村人など500人が犠牲に。

女学校に通っていた母、勉強どころではなく勤労奉仕の毎日。

掩体壕を造ったり、旋盤使って銃弾の加工。

家に帰る途中、グラマンの機銃掃射をうけ九死に一生

その母も亡くなって10年『 あの頃の話、出来る人がおらんゴトなった 』

平田ご住職の言葉が・・・重い。

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( 宇佐海軍航空隊・滑走路と爆弾の後、赤い印は私が生まれた母の実家 )

 

戦局が思わしくなくなっった昭和19年10月、神風特別攻撃隊が編成され出撃開始。

宇佐から飛び立った154名を含め、終戦まで全国の隊員6371名が帰ってこなかった。

田んぼを貫いて、南北に延びる道路は滑走路跡。

 

 

壕の中や記帳所にたくさんの祈り、一青窈さんのメッセージも。

願いはただ一つ、平和が続く未来。

戦後生まれの私、大それたことは言わない。

せめて今日だけでも、ふるさとの記憶をちゃんと残していけたら。

 

(大分県国東半島沖で引き揚げられた、ゼロ戦のエンジンとプロペラ )

( 宇佐平和資料館・映画『 永遠のゼロ 』で使用された実物大ゼロ戦のレプリカを展示 )