お昼寝マンボウの日記

温泉・花たび・お外でランチ、とにかく何でも興味ありのデベソおいさん。日々の、拙い出来事を記録しちょります。

『 祈りの夏 』

今日は、終戦78年。

盆参りに来られた住職、帰り際にいただいた一冊の本。

掩体壕を残すまちから 』 住職ご本人の著。

『 新聞で紹介してもろうたけど、全然売れんでのぉ 』(^^;;

 

中学時代、絵を描く楽しみを教えていただいた女先生。

ご自宅は掩体壕の横、今は農機具やらの倉庫がわり。

先生、お元気でいらっしゃるかな。

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            ( 画像は、2011年12月撮影 )

 

私が生まれた母の実家すぐそばに、宇佐海軍航空隊があった。

戦局が思わしくなくなった昭和19年10月、神風特別攻撃隊が編成され初めて出撃。

宇佐から飛び立った154名を含め、終戦まで隊員6371名が帰って来なかった。

宇佐への爆撃は昭和20年3月から、航空隊の基地を中心にのべ400機10回。

村人など約500人が犠牲に、母の実家の庭にも防空壕があった。

 

母が亡くなったのは数年前、終戦まじかの8月5日。

葬儀の日、住職がポツリ。

『 あの事を話せる方が、ほとんどいなくなってしもうた 』

あの事とは戦争、そして " 宇佐海軍航空隊 " が存在していた事実。 

女学校に通っていた母、勉強どころではなく勤労奉仕の毎日。

戦闘機を格納する掩体壕を造ったり、旋盤を使って弾丸の加工。

作業後の帰宅中、グラマンの機銃掃射を受け九死に一生

 

生きた証言は、いつか聞けなくなる。

住職からいただいた、忘れてはならない引き継ぎの書と自分なりに認識。

誰でも望む穏やかな暮らし、それは永遠でないらしい。

 

昨年、岸田総理に宛てた小学生の手紙。

『 なぜ、防衛費をあげるのですか 』

『 沖縄の人の声を、聞かないのはなぜですか? 』

未だに、返事はない。

○ 宇佐海軍航空隊の写真、黒い丸は爆弾の落ちた後。

○ 赤い印が母の実家、私が生まれた婆ちゃんち。